どんなところか

人気急上集中の観光スポット、石川県!

どんなところか

意外と知らない石川県

石川県が注目を集めているというのは紹介しましたが、それだけだとやはり心許ないところがあります。いくら日本に住んでいるからといって、他の地域の情報に精通しているという人もそうそういるものではない。関東の人にすれば石川県までの距離は相当なもの、数百キロは離れている地域について何を知っているかと言われてすぐに閃くのは地元に在住だった人くらいなものだ。また今まで石川県に一度も訪れたことがない人がいても、なんら珍しい話ではない。愛国心が欠けているんだと一言で片付けられる問題でもないでしょう、何せ行く理由が見つからなければ訪れてもしょうがないというもの。地名は知っている、しかし石川県というものが現代までどのような歴史を辿ってきたのかを知る機会は、持っていてもおかしくない。

地元のことを知るためには実際に訪れることに意味がありますが、歴史という学術的な面では数多く出版されている書籍などを参照にするだけで、どんな重みを背負っているかは大方予想できるでしょう。東京や名古屋、大阪といった大都市にばかり目を光らせるだけでなく、たまに石川県のような街に視点をずらして見てもらうとその良さを改めて実感できるのではないか。そんな人達に対して、ここでは深くまでは行きませんが、軽く石川県の歴史を中心に県の説明をしていこう。

石川県の歴史

石川県の歴史ですが、県庁所在地がある金沢市を中心とした県ではありますが、それ以上に石川県といえば『加賀』と『能登』の両地方を知っている人は多いでしょう。むしろ件名よりも地方の名称が圧倒的に抜群ではないのかと疑いたくなるくらいですが、逆にそれで石川県を覚えたという人もいるはずだ。そんな加賀地方と能登地方で構成されている石川県ですが、その歴史は縄文時代中期以降からといわれている。それ以前、特に旧石器時代頃の遺物は同県内に少ないこともあって、多少なりとも文化的活動をする人間の痕跡は確認されていますが、始まりというにはまだまだ材料が足りないといったところだ。

ここからが石川県の見せ所でもある、特に奈良時代になると能登国が建国され、平安時代には加賀国という2つの国が出来上がるまでになっている。当時はそれぞれの領土争いで決して中はよくなかったのではないかと考えられるので、そこはなんとなく察するとしよう。

そして中世の時代、加賀国では『百姓の持ちたる国』とまで言われる武士の支配から脱却した国として当時その名を知らしめたという。期間もおよそ1世紀近い時間は百姓が中心になって国の運営に大きな影響を持っていたと言われている。一方の能登国では畠山の一族が実験を握っていましたが、その後1577年にかの上杉謙信が攻めてきたことにより、一族郎党すべてが滅亡する陥落劇が展開された。

近代に入ると、関が原の戦いによる勝者として天下統一を為し得た徳川家康の家臣であった前田利家が加賀において、外様大名でありながらも120万石に近い領土を有する有望格としてその存在をアピールしていた時期になる。江戸時代に突入すると、特に加賀では学問や文芸を奨励する動きが強くなり、それが現代にまで続く伝統文化を構築する足がかりとなった。この頃になると、加賀国や能登国といった括りはなくなり、『加賀藩』という1つの国としてその地位を確かなものにする。

石川県と呼ばれるまで

ですが石川県と呼ばれるまではまだまだ時間がかかります、明治になると廃藩置県が行われたことで加賀藩は『金沢県』と呼ばれるようになります。その後名前は新川県、能登国と越中国を七尾県と言った具合に、様々な変遷をするようになっていく。ようやくその名が然りと立たされたのは1872年2月のこと、金沢県庁が現在の石川県白山市美川南町に移したことで、その名を『石川県』と改めるようになった。ここからが現在の県名に繋がる原点であり、始まりでもある。

戦時下による被害をほとんど被ることはなかった

石川県の町並みは後ほど説明しますが、かつての日本を髣髴とさせる文化的な建物が多く密集している地域となっている。それもほとんどの建物が当時のままというのは驚嘆してもおかしくないこと、これは世界大戦期における幾度も行われた空襲被害をほとんど受けなかったことが幸いした。ほとんどの都道府県が焦土と化し、焼け野原となっていく中で原形を保つ県となる。軍の主力施設が無かったことも幸運だったと言うところですが、その甲斐あって石川県という町は国内旅行をする上でこれ以上にないくらいに日本文化を堪能することが出来るのです。

だからこそ観光スポットとして注目を集めたと言われれば、納得もできるはずだ。人気が出るのはきちんとした理由あってのことですが、これ以上ないくらい大きな要因と言えるでしょう。